量子もつれ — 「積に分解できない」相関の正体

前回、CNOTゲートが作り出した奇妙な状態 (|00⟩+|11⟩)/√2。個々の結果は完全にランダムなのに、2つは必ず一致する — アインシュタインが「不気味な遠隔作用」と呼んだ量子もつれを、生成・測定・検証の3ステップで動かしながら解剖します。

1. ベル状態を作る — H と CNOT の合わせ技

もつれの代表例ベル状態は、たった2つのゲートで作れます。まず1個目の量子ビットにアダマールゲート H をかけて重ね合わせを作り、次に CNOT でその重ね合わせを2個目に「条件つきコピー」する。振幅がどう動くか、1ステップずつ追ってみましょう。

|00⟩  →H⊗I  (|00⟩ + |10⟩)/√2  →CNOT  (|00⟩ + |11⟩)/√2 = |Φ⁺⟩ |Φ⁺⟩ はベル状態(4つあるうちの1つ)。中間状態はまだ積状態 (|0⟩+|1⟩)/√2 ⊗ |0⟩ である点に注意
ベル状態の生成 — H → CNOT をステップ実行
オレンジの縦線が回路上の「現在位置」。STEP 1 の H は |00⟩ の振幅を |00⟩ と |10⟩ に等分し(この時点ではまだ積状態)、STEP 2 の CNOT が |10⟩ の振幅を |11⟩ へ運びます。最後の状態はどんな積 |ψ⟩⊗|φ⟩ にも分解できません。

2. 「遠く離れても常に一致」 — 相関を実験する

ベル状態のペアの片方をアリスに、もう片方をボブに渡し、2人を遠くに引き離してからそれぞれ測定させます。振幅は |00⟩ と |11⟩ にしかないので、測定結果は「2人とも0」か「2人とも1」の二択 — 個々の結果はコイン投げのようにランダムなのに、2人の結果は100%一致します。ボタンを連打して確かめてください。

相関実験マシン — アリスとボブの結果は一致するか?
中央の履歴は最近のペア(水色 = 0、オレンジ = 1)。縦に並んだ2つが一致した列は緑、外れた列は赤の背景になります。もつれペアは測定の確率 |cij|² を状態ベクトルから正確に計算してサンプリングしています。「古典コイン」に切り替えると一致率は50%前後に落ちます。
POINT — 「一致」だけなら古典でも作れる。決定打はベルの不等式 実は「あらかじめ同じ値を書き込んだ2枚のメモを配る」(隠れた変数)だけでも一致率100%は再現できてしまう。量子もつれが本当に奇妙なのは、測定の向きを変えたときの相関のパターンが、どんな隠れた変数のシナリオでも説明できない強さになること。それを数式で突きつけたのが後述のベルの不等式だ。

3. もつれ = 積に分解できないこと

「もつれている」の正確な定義は、状態がテンソル積 |ψ⟩⊗|φ⟩ の形に書けないことです。ベル状態で試すと、すぐに矛盾が出ます。

a0b0 = 1/√2,   a0b1 = 0,   a1b0 = 0,   a1b1 = 1/√2  … 同時には満たせない a₀b₁ = 0 なら a₀ = 0 か b₁ = 0。前者なら a₀b₀ = 0、後者なら a₁b₁ = 0 となり矛盾 → ベル状態は積に分解不可能

もつれの「見分け方」は、片方の測定結果で条件づけたとき、もう片方の分布が変わるかどうか。積状態なら何も変わらず、最大もつれなら分布が一点に確定します。もつれの強さはコンカレンスという量(0 = 積状態、1 = 最大もつれ)で測れます。

積状態ともつれ状態の見分け — 条件付き確率ともつれ度
部分もつれは cos α|00⟩ + sin α|11⟩。α = 0° や 90° では積状態(もつれ度0)、α = 45° でベル状態と同じ最大もつれ(もつれ度1)。積状態プリセットでは、Aの結果が0でも1でもBの条件付き分布がまったく同じになることに注目してください。

4. もつれで通信はできない

「アリスが測った瞬間にボブ側の状態が決まるなら、超光速で信号を送れるのでは?」— 誰もが一度は考える疑問です。答えはノー。ボブが自分の手元だけを見て得られる統計は、アリスが何をしても一切変化しないからです。

「通信はできない」デモ — アリスの選択はボブの統計を変えない
1000ペアぶんのボブのZ測定結果。アリスがZで測っても、Xで測っても、何もしなくても、ボブ側は理論値どおり常に約50:50(点線が理論値)。相関に気づくには2人の結果を古典通信で突き合わせるしかありません。
注意 — 超光速通信はできない もつれの相関は「測って、あとで答え合わせをすると一致していた」というもの。ボブ単独の測定統計はアリスの操作と無関係(ノーシグナリング定理)なので、情報は光速を超えて伝わらない。相対性理論と量子力学はここでは矛盾しない。

5. EPRからベルの不等式へ — そして応用

1935年、アインシュタインらは「measurement前から結果は決まっていたはず(局所実在論)で、量子力学は不完全だ」と主張しました(EPRパラドックス)。決着をつけたのが1964年のジョン・ベル。「もし結果が隠れた変数で事前に決まっているなら、異なる向きで測った相関には超えられない上限がある」というベルの不等式を導きました。実験(1982年アスペ、2015年の抜け穴なし検証、2022年ノーベル物理学賞)は一貫して不等式の破れ — つまり量子力学の勝ち — を示しています。

一歩先へ — ベルの不等式の破れ CHSH版のベルの不等式では、局所実在論の相関値の上限は 2。ところがベル状態は最大 2√2 ≈ 2.83 に達する。この「わずかな超過」が、宇宙は「測る前から答えが書いてあるメモ帳」では動いていないことの証拠になっている。もつれの相関は隠れた変数では書き下せない。

もつれは哲学論争の題材から、いまや技術資源になりました。

6. まとめ

次回予告 — 回路を自分で組む H・X・Z・CNOT…部品はそろった。次回は量子回路シミュレータで、ゲートを自由に並べて振幅の変化を追いながら、自分の手で重ね合わせともつれを設計する。